昭和50年06月10日 月次祭



 明るいと云う事は大変気持ちが良いのです。それが又一段と明るいと云う事にあると愈々素晴らしいです。もう実にこう晴れがましい気が致します。こうライトがねもう偉くなくてん、偉かつなごと見えて来る。気分が良いもんです。所が私はどちらかというと暗い方が好きなんです。もう私の部屋でも控えでも皆が暗い暗いと言いますけれども、暗い。朝の控えに出て参ります時には、小さい小さい5蜀光の電気が一つ点いておるだけです。その気分が堪らなく私は好きなんです。
 人間の心の中に暗い思いを致したましたり、それこそ目の前が真っ暗うなる様な事に出会いましたり、致しまし時にそう云う様な時に、私はそういう心の状態、そういう時に自分の心の状態とその問題といわば暗い思いをする、又は真っ暗な思いをする時にです、自分の心の中に光を頂いておったらまあどんなにか有り難い、しかも一生涯の内にどの位徳をするか便利をするか解らないと思うのです。
 信心とはその心に光を得る事であります。しかも5蜀光よりもいわば十蜀光十蜀光よりも百蜀光と云う様に、その光がですもう遠くまで光輝く様な大きな光になる。その光を求めて又は願っての信心でなからなければなりません。暗い所が好きだとか薄暗いのが好きだとか、是は私の趣味の様に皆んなが言いますけれども、そういう暗い思いをしたり薄暗い所のでの方が、一番自分と云う物を見極めるのに良い良い時なのです。
 それこそ商売でいうなら又売れた又売れたと云う様に繁盛の時なんかは、中々自分を見詰めるとか反省するとかと云う事は中々出来ません。そうして調子に乗り過ぎる様な事になり兼ねないのですけれども。所謂扶にょういな事が続いたり、難儀な問題を抱えておりますと、信心をさせて頂くものはそういうおかげで元気が出ます。そういうおかげで、信心のあり難さが愈々しみじみと感じられる様になります。こういう時にも信心がなかったらどう云う事になっとったであろうかと言う様な事が御座いますでしょう。
 そこを間違いなく辿らせて頂く、と云う所に信心の値打ちがあると思うのです。今朝から朝の御祈念の後に、吉井の羽田野さんが毎朝あの様にお参りになられます。で此処で御届けをされますのに先先日、八日の日が久留米の共励会で御座いました。本当にこの度はおかげを頂きまして、皆さんのお話を頂いて元気が出ましただけではなくて、こちらから先生方が誰でもおいでる事は出来ませんでしたので、桜井先生がここの先生方を代行しておいでられました。
 先生が御祈念を仕えられる。そしてその御教話の中にもう本当に感動いたしましたと言うて今日御届けをしておられます。というのは桜井先生がもう、十何年でしょうかね学院、十何年になられますか、はあ二十七年も前の話なんです。学院におい出られました時に。勿論金光様の先生を目指すのですから、いうなら素人じゃない玄人、所謂プロを目指しての信心修行でもあるのにも関わらず、来る日も来る日も有難く成れない訳なんです。信心とは有難く成らせて頂く稽古だと聞いておるのに。
 御祈念も一生懸命するし、教えにも取り組んで貰うし、朝早よから晩遅う一生懸命勤めさせて頂くけれども、一向に有難く成れない。御願いをさせて頂く事は御神前に出て、どうぞ有難う成らせて下さいと云う事であります。私はそこを聞きよったら私の方が涙が流れて来たです。信心とはそれなんです。神様が願うてくれ、願えと仰るのはそれなんです。氏子信心しておかげを受けてくれよとおっしゃるのは氏子信心して有り難うなってくれよと云う事なんです。
 信心しよりゃ暗い事も真っ暗なる様な思いもする事も無いと云う事じゃないんだ。暗い思いもすりゃ真っ暗な思いをする様な事もあるけれども、信心の有難さと云う物は耐えうる力。そういう時にむしろ元気が出る。本当に信心が無かったらと信心の有難さがしみじみ解らせて頂けれる世界。信心しておるから雨も降らん風も吹かんじゃないけれども、雨も有難い風も又有難いという心が開けて来る時に、一切が有難いと云う事になる。そういう有難い心の世界を開いてくれというのが。
 天地金乃神様の人間氏子に対する願いなのです。その神様の願いを私共が私共の願いとするのですから神様が喜んで下さる筈がない。神様の願いを私共の願いとさせて頂くと言う信心なんです。ね。所謂来る日も来る日もどうぞ有難く成らせて下さい。羽田野さんもお届けしながら涙ぐんでおられました。その時の事を思い出されたのですね。きっと。私は桜井先生のあの話を聞いて感動しました。と言われるのです嘘の話じゃない。本当の話は心に響くです。
 矢張りしかも二十七年も前の話なんです。勿論三代金光様の時で御座いましたが、ある日たまたま神習の当番にあたられた。金光様がここで御結界奉仕をなさっておられる、それを側からジッと拝ませて頂くという修行であります。羽織り袴に白足袋を履いて、襟を正して金光様の御用、お取次のご様子を拝ませて頂いておる。皆んながよく金光様があの、御結界でお眠りになると云う事を聞かせておったが、その日も確かにこのお取次をなさる合間合間にこくりこくりとお眠りになる。
 お筆をお持ちになってから御神米をお書きになる時にね、もうあわやその御神米を汚されるかと思うと、はっとその寸前でまた御神米とお書きになってお下げになる。もうその様子を見せて頂いておりましたら、今まで有難うなかった、心の中から咳を切った様に有難い物が込上げて、もし私くしに感情が方であるならば、ね、感情方の人と感情が少ない人がありますよね。
 もし私が感情方の者であったらその先生に飛び付いて行って、一緒に感動しだろうと云う位に有り難く成って来た。願わにゃいけませんですね。何が有り難く成るやら、こうしたから、ああしたから有り難く成るのじゃない。ね。教えを取り組む事も去る事ながら、ね、信心に取り組ませて頂くその願いの中にです、どうぞ有り難う成らせて下さいという願いを持つと云う事。
 その願いがですその思いもかけない時に成就した。ね。金光様がお筆を御持ちになって此処でお取次、いくら生神様という御神徳御神格を頂きに成られても、矢張り生身を持っておられる、しかももう老境にお入りになられた金光様の事ですから、居眠りが出らんというなら出らん方が嘘である。朝の四時から夕の四時までもうそれこそ、もうぶっつ続いての御用奉仕なのですからね金光様の場合は。
 当時はそうでしたね。。御晩年の頃はお手代わりの方が出られましたけれども、その当時は金光様は朝から晩までの御用奉仕であられました。ね。その時ちょいと裏へ下がってからちょいと横にならせて貰おうと普通私共なら言う所ですけれども、それをなさらないのですから、お眠りが付くのも当たり前。なんと厳しいお修行であろうかとまあ云う様な理屈ではないですけれども、そう云う様な物がこもごもに、自分の心の中に咳を切って有難う成らせて頂いて。
 金光様すみません勿体のう御座います。という有難う成られたという話をねなさったと云う事です。それを聞かれた羽田野さんがもう一昨日の、八日のお昼ですか、ね、今朝までまだその感動が続いておる。しかもここに座らせて頂いておる私にまでその感動が所謂及んで来た。有難いと云う物は素晴らしい事だと思います。ね。今日は光昭が前講を勤めさせて頂いておりました。彼も矢張りお道の教師を志させて頂くのですから、まぁ多かれ少なかれ結局信心が好きになりたいという願いを持っておる。
 中々精進が出来ません、修行が出来ませんけれども、そして此の様に好きな事であるならばです楽しいのに、この様に有難いのに事信心と云う事になったらお広前出てさあ御祈念が始まるともう眠気が付く。こんな事ではいけん、自分を自分でも思うて見るけれどもどうにも出来ない。ね。是はまあ親に似たガメンコというのでしょうか、私くしが若い時にああいうその三味線を弾いたり踊りを踊ったりしました様な事が好きでしたから、やっぱり子供達もそれぞれに好きな様です。
 特に光昭はあのう好きです。もう小さい時からあのなんですかね、所謂楽器をいじるのが好きです。そしてそれさえあればそれこそ、ギターを弾いたり音楽を聞いたり、する事がもうそれは確かにね少少頭が痛かっても、少々お腹が痛んでおっても、心の中がイライラモヤモヤして腹どんが立つ時には一生懸命それこそ三味線でも引きよりますとね、確かに治るです。頭の痛かとくらい。好きな事と云うのはそう云う事。
 嫌いな事がどうでしょう。頭の痛い時に割れたら、私は頭痛うして堪えん。それは出来んというでしょうけれども、好きな事ですからいうならそれが出来る。だからあの、ギターを弾くくらいに自分が信心が好きになったらさぞ良かろうとやっぱり思うらしい願っておる。桜井先生じゃないけれども、有難う成りたい好きに成りたいと願わせて頂いておるけれども、中々一向好きに成れない。
 好きこそものの上手なれで愈々信心も上達して行くのでしょうけれども、初めから皆んな信心が好きという人はそんなにざらにあるもんじゃありません。ですから私共が愈々願いをです、ね、新たにね信心が好きになりたい、有難う成りたい有難う成らせて下さいという、願いを一つ本気でさせて頂かなければならないと思います。是はもう毎日、日に何回も実感する事ですけれども、此処から私の部屋まで参ります。随分幾間があるでしょうか、行く曲がりも行く曲がりもして長い廊下を歩いて行きます。
 その歩いて行く時だけしか思わんのですけれども、何時も是は思わにゃいかん。歩いて行くもうそれはもう本当に実感として思うのですけれどもね、歩かせて頂くと云う事はどうして有難い事だろうかと思います。私共の様にそれこそ此処に座るのが商売で、座ってばっーかりおりますから、今日はいっちょ時間があるから散歩にでも出ろうかと云う事を致しませんから、もう私くしの言うならこよない有難い散歩道(どう)です。しかももう歩き始める時からもう、あり難いです。ね。
 人間がどうかあって見て、例えばお腹ならお腹がせいて見て、それこそ押し転びする様に苦しんで見て、すっきりと良くなった時の有難さ。健康と云う物がこんなにも有難い物だろうかと思いますけれども、そこを通り抜けるとまた元の木阿弥。ね。ですから信心とはそういう痛まない、ね、例えばここへ座っておっても座らせて頂く事も有難いなら、又歩かせて頂く事も立ち上る事も有難いのだ。ね。
 腹が痛いのが治ったのが有難いのではない。何時もまめなのが有難いのだと解らせて頂くという信心が大事であると云う事が解りますですね。その何時もまめなと言う時の方が長いのですから。そこで矢張り稽古であります。様々に私は稽古して見なければいけない。今日ちょっと共励殿を覗きましたらあそこへ、あのー色んな物を飾る棚が大きな棚が御座います。大きな壷が二つ置いてある。上には金光様の信心辛抱の、あっ信心の稽古と書いてある色紙が掛かっております。
 下には大きい壷が二つ共中に小さいものが三つこう並んでおる。それがね片ぁ隅の方に寄せてしまってる。ね。いうならば取り片付けたと云う様にこう奥の方にこうやって押し込んでしまってある。どう云う事になりますでしょうどんなにその壷が素晴らしい値打ちのある壷でありましても、ね、もうそうなりますともう部屋の邪魔にしかなりません。所謂見た目にも良くありません。いわば邪魔になっておると云う感じであります。
 それでその壷をね、普通の位置の所へこう三つ並べておきますと、言わばそれは飾り棚に素晴らしい壷ではなくても、素晴らしいなあと云う感覚的にも、良いなとこう思わせて頂くのです。ですからね私共が稽古をすると云う事はね、自分の心配りという事が稽古の大事だと思うのです。例えば石庭がここに御座います。大きな岩の様な石が幾つもそこにごろごろともし積み重ねてあったとするならば、こげんとは片付けりゃよかとに、折角この空き地にこげなんば重ねちからと云う事でしょう。
 所が配石を、石を配ってある。しかもその、庭を造った名人と言う人がですね、適当な位置に石を配りがしてある。ね。ですから、見ておっても良いなぁと思うし、この庭なんか本当に何とはなしに合掌しなければおられないと云う様な庭に変わって来るのです。石その物は同んなじです。ね。その石の配置いうなら石配り言うなら心配りが大事なのです。私共の心もねやはり配らせて頂かなければいけんです。ね。
 自分がはあ気分が良いな、今日私くしここを下がらせて頂いて、何時も久富先生と一緒にお風呂に入るから、また神饌があっとったので、暫く時間があったから風呂入る前に手持ち草ですから今若先生達が御本部参拝をしております。それで何時もは部屋に入りませんけれども、ほりゃもう散らかしておりますから取り片付けて、それから今朝から花を沢山頂いておるけれども、頂いたなりで誰ぁれも扱ってもおりません。
 それから花瓶を出して若先生がその床の間に花を入れてあったり、まぁ今あの申します、共励殿にも又花をこう入れたりします。ね。そすと何とはなしに、その周の周辺の物がその座敷全体が生き生きとして参ります。心の花も矢張り同し事。自分の心の花と云う物がです、生き生きと喜びに輝いておる。満ちておる。そう言う人が家の中に一人おりますと家ん中が明るうなります。輝き出します。もうあの人の顔を見よったら心が落ち着いて来ると云う事になります。ね。
 いかに心の花が大事かと云う事が解るでしょう。同時に心配りと云う事が解るでしょう。あれを思いこれを思い、その心がこうやって重なっておるとです、こうなっておるからこれが邪魔になって、それこそ自分で自分の心が嫌になる事なって来ます。その心を配らなければなりません。あの人の事を思いね、思うというても、あん奴がいっちょ早ようでんぐり死にゃええがと思うたこっちゃいかんと。いやそんな人がやっぱあるとですよ。そりゃ見てんなぁばちかぶって死んだち。
 そげな事したもん、必ずあれがさでくり死にゃえぇがち思うとったに違いない。ね。勿論有難い、有難い事を心を配らせて頂く。もう神様に喜んで頂く様な心を配るのです一生懸命配るのです。それだけではありません。いうならば心に生き生きとした花が是が心の花であろうかと、我と我が心が拝めれる様な心を、心い常時持ち続けさせて頂く事によって、いうなら私しの喜びはここに一杯あるならばお広前全体が、有難いムードに包まれるでしょう。皆さんの家庭に於いてもしかりである。
 それには矢張りそういう精進が必要だと云う事で御座います。今日はもう下がらせて頂くちょっと一時間くらい前だったでしょうか。日田から伊藤さんという方がお詣りして参りました。ここの井出さんの兄さんの奥さんになりますかね、月に一回くらいしか参って来ません。丁度お参りが切れて一人でした。そしたらね、もうひっきりなしにお話が出るんです。お話をする私もあり難い一杯でお話するならば頂くほうもそれこそ涙を流さんばかりに頂くのです。
 井出から何時も言われる。もうそれこそ一週間に一遍くらい参りなさいと言われるけれども、中々お参りが出来ませんけれども、実は先生今日は自転車で参らせて頂いたというのです。はあーーこの人にお話がどんどん出る筈だと思いました。先生日田から此処まで自転車でやらせて頂いておりますと、そのやらせて頂いておるその道々が有難いことで御座いましたというのです。
 今ごろはそういう信心が段々無くなって来た。もう言うならばもうドライな信心が流行ってきた。エレガントな信心がこの頃捨れて来た。昔の人はどこまで歩く。その事を修行と思うて。言うならば八里ありますとしますならば、二八の十六、十六里の道を自転車でそれこそ、自動車で皆んながシャーとこう行っておる中を一生懸命踏んで行きながらです。同時にあの参ります間に大きな坂もある。下り坂もありますよね。
 そこを登ったり下ったりしながらです、来る道々有り難うして有難うしてというので御座います。そりゃ有難かった筈な。ね。神様へ向ける心というのが一途なのだから。合楽へ合楽へ一生懸命踏んで来るその思いを神様が受けなさらん筈はないから。今朝方からお夢を頂きました。そのお夢が沢山誰かが玉ねぎを持って来てくれております。けれどもそれを私が貰渋りというか、買い渋っておるという状態で御座いましたが、どう云う様な事で御座いましょうかというのです。玉ねぎと云う物はあれは臭いもの。
 あれはね結局人間的にはあなたが今、日田からここまで自転車でも参ろうかという根性も持っておるけれども、その根性は時々周囲に悪臭を放つ事がある。けれどもね、その臭い事が素晴らしいのです。その根性が有難いのです。でなかったらとてもここまで歩く、ふうたらぬくか例えば人ではとても思うただけでも嫌です。ね。その根性がいうなら合楽まで自転車で参らせて来た訳です。
 そして是からもせめて月に一遍位は自転車で参拝する事がこんなに有難い物だと感じ出しております。だから玉ねぎと云う物は一皮一皮剥いて行かなければならないのです。自分の改まらなければならない所臭い所、それが一枚一枚こう剥きあげられて行く時に、どういう所謂一つ一つとられて行く時に、所謂無になって来る。自分と言う物が無になって来る、我情がなくなり我欲が無くなると云う事になったくる。そういう時に素晴らしい言わば御神徳の光に潤う事が出来るのです。
 あなたはそういう意味でそういう臭みを持っておいでの様な人ですけれども、私くしと同んなじ。私も過去においては皆さんがそう言っておりました。一方ではとても大坪さんな話を聞いて有難いといいよるがと思うと、一方には非難もう攻撃がごうごうたるものでした。それをある人が私くしの夢を頂いて、私くしが風呂を焚いておる。ね。ゴム草履の使えない様なつやら。
 古タイヤのごたるとを炊いてどんどん鉄砲風呂でこう風呂を沸かしておる。風呂の中に入っておる人は、はぁ極楽極楽ち言いよる。所が辺り近所の人は臭うして堪えんち言いよる。ね。そういう時代が私にもあったのだけれども、あなたにもやっぱりそう云う様な物があるのですよ。だからそれを信心によって一枚一枚剥ぎ取られて行く時に、空しゅうなる。いうならば現在の私くしの様に。
 いうなら我情我欲が無くなると云う事になるのじゃないでしょうかというてまあ話した事です。ね。有難うならせて頂く為には。やっぱりそういう修行も又必要なのです。もう兎に角此処のお広前を立ち上がるのが惜しい様な感じで今日帰って行かれる後ろ姿を思わせて頂いて、どうぞ今のあの有難い心がどうぞあの信心が、続けられます様にと思わず祈らなければならない想いがしました。
 皆さんどうでもぎりぎりのと頃お道の信心は有難う成らせて頂く稽古。それには先ず好きになる稽古を本気でさせて貰わなければいけない。そこに心配(こころくばり)があり、そこに心の花が必要であり、又は一心発起の精進のいわば修行に思い立たせて頂く時に期せずして神様が、ね、どうして此の様な有難い物を下さるだろうかと思う様な心の中に有難い物が開けて来る。
 その有難い心に有難いおかげを頂かせて頂くというのが。天地金の神様の私共人間氏子に対する所の願いなのであります。ですからそういう願いをね、踏んまえて商売の繁盛も健康のおかげも、願わなければならないと云う事が解ります。神様の願いが云うならば私しの上に成就する。神の願いが地上になると云う時なのですから、そう言うおかげが成就して行く信心を本気でさせて頂かなければならんと思うので御座います。
   どうぞ。